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フィリップ・クレイヴァン様(元国際パラリンピック協会 会長)

インタビュー前編
「私は戦うことに躊躇することはなかった」
フィリップ氏は1950年、英国北部の都市、ボルトンに生まれ、スポーツに夢中な子ども時代を過ごした。ハイレベルなアスリートではなかったものの、経験したスポーツはクリケット、テニス、フットボール、そして水泳と多岐にわたる。足さばきは苦手だったが、投球と捕球が得意で、特にクリケットを好んでプレーしていたという。そんなフィリップ少年は、16歳の時にクライミング中の事故で脊髄を損傷してしまう。下半身に麻痺が残り、車いす生活を余儀なくされた。1966年のことだった。
その1:出会い
フィリップ・クレイヴァン(以下フィリップ):事故の3日後にリハビリセンターで車いすバスケと出会った。その後、地元のチームでバスケを開始すると、フランスに拠点を移してプレーを続けた。当時はまだ自国(英国)の外に出てパラスポーツをする選手は殆どいなかったから、自分自身を観察するという意味でとても良い機会だった。この経験を通じて、パラスポーツや車いすバスケという競技の構造に目が向くようになったんだ。私の住む英国には「ストーク・マンデヴィル」というパラスポーツ発祥の地とも言うべき場所がある。所属する医師や組織の人間の発信や考えの多くには共感したけれども、納得のできない古い考えもあったね。
その2:イギリス代表選手時代の「活動」と「活躍」①
フィリップ:1976年のことだ。その年はカナダのトロントでパラリンピックが控えていたのに、惨敗に終わった前回大会(1972年)からチームの状態は一向に改善していなかった。私は国内のトップチームに加わったばかりだったが、代表のコーチは力量不足でアドバイスを聞く気にはなれなかった。選手たちにも車いすバスケに対する考えが浅く、私へのアドバイスも的を射たものではなかったんだ。その年の国際ストーク・マンデヴィル大会(当時の国際的な障がい者スポーツ大会)で、私はバスケと水泳のコーチとマネージャーを集めて伝えた。「あなたたちは仕事をしているとはいえない。英国代表には良い選手がいる。しかしこのままでは結果は出ない」と。私の言葉も虚しく、結果的にトロント・パラリンピックで英国代表は好結果を収めることはできなかった。古い姿勢から抜け出すことができなかったんだ。とても悔しい思いをしたことを覚えているよ。

フィリップは、現役時代から競技運営の立場にも精力的だった。トロント大会(1976年)の翌年から、1994年まで、英国車いすバスケットボール連盟の会長を断続的に務めた。最初のハイライトは、1984年から、現役を退く1988年まで取り組んだ「国際クラス分け」(障がい程度に応じた選手のカテゴライズ)の見直しだろう。それまでの規定は、医療関係者によって決められた、障がい者のリハビリテーションに主眼を置いたもの。車いすバスケをスポーツとして楽しむ上で、フェアなルールとは言い難い状況だった。1984年、国際ストークマンデヴィル大会連盟(ISMGF=当時存在した国際的な障がい者スポーツ団体)のクラス分け担当部長に就任すると、改革に着手していく。共に働いたのはドイツのホルスト・ストローケンデル博士(故人)ら。ストローケンデル氏は「車いすスポーツのための機能的なクラス分け」と題した論文を執筆し、現在の車いすバスケの持ち点制度(※)の基礎を作った人物である。

※障がいの程度に応じて1.0〜4.5まで選手それぞれが点数を保持し、試合中にコート上でプレーする選手の持ち点が計14点を超えてはならないという規則。障がいの程度に拘わらず、等しく出場する機会を与えることを目的としている。持ち点の低い選手を「ローポインター」、高い選手を「ハイポインター」、中間の選手を「ミドルポインター」と呼び、それぞれが適材適所でプレーをしたり、相手のポジションの逆をついてミスマッチを誘ったりするなど、戦略立案や試合観戦の上で重要なポイントにもなる。
インタビュー中編
その1:イギリス代表選手時代の「活動」と「活躍」②
フィリップ:私は、現役の頃から従来の制度に嫌悪感を抱いていた。選手への配慮に欠けていたからだ。特に、障がいの程度が重い選手ほど、活躍の場を奪われていた。この制度を理由に競技から去った者もいたほどだ。ある大会で、選手は「僕らはスポーツを学びたいのに、車いすバスケで学ぶことはゴールの高さだけだ」とさえ言った。つまり、スポーツの楽しさよりも、(障がいによって)できないことに目が向いてしまうだけだ、と。

とはいえ、クラス分けの見直しは、一筋縄ではいかなかった。当時、車いすバスケはISMGFのひとつの部門に過ぎず、フィリップらに反対して旧来のルールを重視する人々も少なくなかったからだ。スポーツ選手にとってフェアな風土を目指し、フィリップは次第に、新たな競技団体をつくって独立することを志向するようになる。1988年にISMGFの車いすバスケットボール部門長に就任したフィリップは、翌年に国際車いすバスケットボール連盟(IWBF)を創設。1993年には同連盟の会長に就くとともに、ISMGFからの脱退を表明した。

フィリップ:IWBFの歴史は、障がい者スポーツが、「スポーツ」として認められるための戦いの歴史でもある。私は戦うことに躊躇することはなかった。IWBFとして初めて開催した世界選手権は1990年のベルギー大会。続く94年のカナダ大会では、4年間の蓄積を示すために細部までこだわった。2002年に会長を退任するまで、私は戦い続けてきたつもりだ。それを可能にしたのは、私個人の力というより、スポーツの力だと思う。その間、私を支えてくれたのは、父から学んだ信じて戦う姿勢と、祖母譲りのタフネスだと思っているよ。

IWBF会長としてパラスポーツの地位向上に努めてきたフィリップだが、2001年には国際パラリンピック委員会(IPC)の第2代会長に選ばれる。パラリンピックという世界最大のパラスポーツ大会の舵取りを任されることになったのだ。
その2:「心の明かりを灯すか消すかは、あなた次第だ」  
2001年にIPC会長に就任したフィリップ・クレイヴァンは、2002年のソルトレイクシティ大会(冬季)から、2016年のリオ大会(夏季)まで、夏冬各4回のパラリンピックに携わった。「史上最高のパラリンピック」とも言われ、成功を収めたロンドン大会も主導したが、会長在任中のハイライトは、彼がIPC会長として最後に携わったリオ大会だったかもしれない。当時、国際アンチ・ドーピング機構(WADA)によるレポートで、2011年から2015年にかけての、ロシアによる国家ぐるみのドーピングが明るみとなり、リオ大会を目前に控えたスポーツ界を震撼させていた。全ての競技においてロシア代表選手の出場を禁じるべき、との意見も出たが、五輪に関しては、IOCは、やや譲歩的な措置を執った。陸上競技では「潔白」と証明された一部選手の出場を認めたほか、全選手の出場を認めた競技もあった。しかし、フィリップ率いるIPCは、この事態に対して強い姿勢を貫いた。ロシア代表のパラアスリートを、リオ大会から完全に排除したのである。

フィリップ:私はいつも、クリーンなアスリートのために戦いたいと考えている。この問題に関して多くを語ることはできないけれど、当時、五輪の開幕を間近に控えたIOCと比べて、私たちには少し考える時間が残されていた。最初に得た情報は、五輪競技の中で、陸上競技が最もロシア選手がドーピングの陽性反応を示した種目である、ということだけだった。以後、私たちはパラアスリートたちに対する丁寧なヒアリングを行い、この問題に関してより多くの情報を得ることになった。結果として、ロシア代表選手をリオ大会から全面的に除外することを決定したんだ。リオに滞在している間、私はとても大きな重圧を感じていた。一国の選手全員を大会から排除する決定を下したのだから。五輪で競技場に立った「潔白の」選手は、確かに潔白なのだろうと思う。だが考えてみてほしい。ドーピングを国家レベルで行った国の選手が出場していることはフェアなことだろうか? そして、ドーピングを行った選手を前にして、「この選手に勝つことは難しい」と言われた時、あなたは挑戦したいと思うだろうか? 深く考えてみてほしい。
インタビュー後編
続「心の明かりを灯すか消すかは、あなた次第だ」 
フィリップは、リオ大会を、IPC会長として自らが携わる最後のパラリンピックとした。後を継いだのは、ブラジル出身のアンドリュー・パーソンズであった。フィリップは、2018年6月、IPCのワールドワイドパートナーであるトヨタ自動車の取締役に就任した。社長の豊田章男氏からの要請であった。フィリップと章男氏を結びつける一つのエピソードがある。章男氏がIPC本部に訪問した時、ゲストブックにこう書いたという。「One World, One Dream, One People, ONE TOYOTA」。フィリップが2008年の北京パラリンピックの際に打ち出したスローガンの末尾に社名を加えたのだ。

フィリップ:全ての人々は、一人ひとり個別の存在だ。さまざまな身体があり、それぞれの脳は別々のことを思考し、異なる価値観を持っている。だから、私は「One World, One Dream, One People」という言葉を掲げた。“世界”とは何だろう? “夢”とは何だろう? 答えは人の数だけある。世界は個人の意思ではないからね。パラリンピックは、その考えを基礎として運営されなくてはいけない。章男氏は、その言葉を尊重し、筆を走らせてくれた。取締役就任を快諾したのは、別々の道を歩むよりも、共に歩むべきだと考えたからだ。
フィリップがIPC会長としての16年間、パラリンピックを統括する中で重視してきたことは、パラスポーツの浸透と競技の公平さに加えてもう1つある。それはパラスポーツの教育的側面だ。フィリップは2012年のロンドン、2016年のリオの2大会において「リバース・エデュケーション」と呼ばれる手法でパラリンピックの啓発を行った。競技を少年・少女に対して積極的にオープンにしていくことで、周囲の“大人たち”に対してパラスポーツの魅力を語ってもらおうというわけだ。「教育は大人から子どもに対して提供されるもの」というステレオタイプの逆をいく発想であった。この発想の転換は、観戦者の裾野を広げ、観戦チケット販売の伸び悩みを払拭することにもつながった。

フィリップ:幼い頃にパラリンピックを観戦し、パラアスリートたちの躍動に直に触れる。子どもたちは、「片腕や片脚がなくても、目の前で競技をする彼らは、一人のアスリートとして競技に向き合っている」と感じ取るはずだ。その時の体験を、子どもたちは周囲に対して語っていく。その連鎖が及ぼす影響はとても重要なんだ。パラアスリートたちは時に「特別な人間だ」と思われることもある。そうではなく、障がいの有無にかかわらず「皆同じ人間」ということ。それが、パラアスリートたちが発するメッセージだと思う。そのメッセージを受け取り、周囲に話すことは、子どもたちが自分自身を教育すること、つまり内省を促すことでもあるし、周囲の大人たちにとっても世界を広げるきっかけにもなるはずだ。私たちは何もかも知っているわけではない。だからこそ毎日学ぶことができる。
IPC会長就任前も含めると、約四半世紀に渡ってパラスポーツの発展と、フェアネスのために尽力してきたフィリップ氏。そのモチベーションの源泉はどこにあるのだろうか? フィリップは「多くの人々や、日々の生活から多くのエネルギーを貰った」と語る。

フィリップ:私と関わった人々は気づかないかもしれないけれど、私は彼ら、彼女らにいつも刺激されて生きてきた。また、私は一つの道を決めたら、生活の一つとしてコミットしてきた。そして、スポーツからは多くを学んだ。例えば「楽しむ」ということ。スポーツの本質は楽しむことだ。その他の要素は問題ではない。楽しむことで生まれるエネルギーはネガティブをポジティブに変えていく力を持っている。もし私の心がカップならポジティブなエネルギーで満タンにしたい。シンプルに言えば私はそういう人間だ。
2020年3月24日、東京五輪・パラリンピックの1年間の延期が発表された。新型コロナウイルスの影響で世界中のスポーツ界にネガティブな空気が漂った。
6月現在、徐々にその息吹は戻りつつあるが、来年の五輪・パラリンピックの開催可否は依然として不透明なままである。そんな中、フィリップの人生から滲み出る姿勢は、今こそ必要な社会の成分と言えるのかもしれない。フィリップは、こう言葉を投げかける。

フィリップ:常にポジティブであれ、とは言うつもりはない。けれど、もし自分がポジティブではないと感じた時は、一歩下がって今の自分を観察してみることをすすめる。その上でポジティブであることが必要だと感じれば、前向きになるために気持ちを整理すると良いだろう。要は、何かに対して怒りが芽生えている時に、そういった気分をうまく修正できるようにすることが大切だ。時には、ネガティブな気持ちを周囲にぶつけてしまうこともあるだろうし、それが連鎖してしまうこともあるかもしれない。ただ、感情をコントロールできることが、自信にもつながっていくということも、また真理だと思う。ポジティブなエネルギーは、私たちの心の中にあるスイッチのようなものだ。明かりのスイッチのようなね。つければ明るくなるし、消せば暗くなる。どちらを選ぶかはその人次第だ。一つ言えることは、それにはお金はかからないということさ。

2019年11月、パラキャン事務局長・中山薫子のインタビューより:(文・ライター吉田直人)